カテゴリー「学問・資格」の20件の記事

FritzingとPasS

 電子工作をするときの試作手段に、ソルダレス・ブレッドボードを使う方法と、ユニバーサル基板を使う古典的な方法がある。高周波や大電力を扱わない限りどちらの方法にも利点と欠点があり、使い分けるのが望ましいと思う。今回の話題はこういった電子回路の試作設計をパソコンで行うことができるツールの紹介だ。

Fritzing

 ソルダレス・ブレッドボード(単にブレッドボードと呼ぶこともある。以下、ブレッドボード)とは文字通りハンダ付けが不要で、部品挿抜が容易なストリップラインが上下に並んだ専用のベースボードのことだ。サイズは小型なものと中型のものがあり、回路規模が大きくなるような場合は、単純にブレッドボードを増やすだけでいい。一般的なブレッドボードは 中央に300mil程の溝があり、ここへ横向きにDIP部品を配置する。そしてその溝の上下にあるストリップラインにジャンプワイヤーやその他の電子部品 の足を突き刺すことで配線を行うことができる仕組みだ。そのため、回路の修正作業がとても簡単にできるのだ。慣れてくると頭の中でイメージした回路図を、 いきなりブレッドボードで組んでいくこともできるが、1枚のブレッドボードに整然と回路構成させるとか、無駄なく、正しく、美しく(と自分が考えている)配線を行うには、事前に設計できるととても便利だ。Fritzingは現時点でまだα版ではあるが、Arduinoブレッドボードを並べて配置配線のイメージをつかむのにとても役に立つ。Fritzingでの設計作業は3つの画面で構成されている。メイン画面はブレッドボードによる実体配線図画面だ。部品をドラッグ&ドロップして足を結線する作業はとても簡単で、結線済みの配線を選択すると導通している配線が強調表示される点も便利である。もちろんブレッドボードArduinoも使わない回路を作成することもできる。その場合は、被膜・被覆電線によるハンダ付けかベタアースによる空中配線ということになるだろう。Fritzingの面白いところは実体配線図を作成すると、もれなく電子回路図と基板用アートワーク(配置配線図)が作れることだ。(残り2つの画面)あるいは回路図やアートワークからブレッドボードに 展開することもできる。つまり、実態配線図と電子回路図とアートワークが連携しているということだ。回路図などを美しく仕上げるには部品配置を考慮する必 要があるが、簡易的なオートルータ(自動配線)を実装しているため、結線は半自動でもできる。まだαリリースだということなので、回路図とアートワークは 実用レベルとは言いにくいが、電子工作の初学者にはとても便利だろう。まず動く回路設計から入ってみて、実際に動く回路を確かめながら、回路図や配線図を 習得するというのは、たいへん理に叶っていて受け入れやすい。

Pass

 古くからある伝統的な電子回路の試作手段に、ユニバーサル基板を 使う方法がある。こちらは部品をハンダ付けすることで電子回路を構成するため、間違えたり変更したりしたい場合の修正作業は簡単ではない。ハンダ付けが必 要なため、ハンダ不良による信号の短絡や火傷の危険もあるし、熱による電子部品の劣化や破損も考慮しなければならない。だが、完成後に正常動作するのであ れば、少ロット生産にも応用できる。現在の家電製品ではあり得ないが、大学や研究施設などで使う特殊回路は、専門性が高いことと民生応用が必要ないという 点で、試作が良好ならそのまま使うというような、つまり道具を作るレベルでは十分に役に立っている。もちろんホビイストが自分で使う電子機器にユニバーサル基板を選択することも多い。自分も初期の頃はそうであったが、部品面に対して配線面(裏面)は左右が逆転していることから、何度も配線を間違えていた( 1番 のつもりが 28番 だったとか)ことを思い出す。やがて感光基板を使うようになって、少なくとも配線で間違うことはほとんどなくなった。1)ユニバーサル基板も感光基板もハンダ付けで部品を実装するという点で、電気的な問題や実装密度など、「実装=実動」という印象が強い。実際には試作段階ではうまく動かないことや回路定数未定で実装しなければならないことが多いので、必ずしも動くという訳ではないけどね。それはさておき、PasSはそんなユニバーサル基板派 にとって便利なツールだ。設計は実体配線図を作成する、基板の表画面と裏画面を見ながら行う。必要な大きさのユニバーサルをドラッグ&ドロップし、部品な ども同様の方法で配置していく。配線は部品面を見ながら行うことができる。つまり電子回路CADのようにソルダ面を透過して見ながら配線ができるという訳 だ。PasSは回路図の概念がないため、回路は別途設計しなければならず、その実装方法の支援をツールで行うということになる。電子回路用のCADソフトは回路設計と基板設計は分離されていることも多いし、それぞれフリーのツールもあるから、後述のEAGLEなどを利用して回路図を作成し、PasSユニバーサル基板の実装設計をするというのがいいかもしれない。実際の実装作業ではPasSで表示される左右反転した基板裏面のウィンドウを見ながら行うことができるため、配線を間違う心配が少なくなるのだ。

 この話題とは直接関係ないが、自分の場合は最終形態として自作基板、つまり感光基板で実装したいという思いが強い。...全文

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ウェブサービスのコントロールセンター

 サーバー用のパソコンのハードウェアリソースが十分ではないのですが、ウェブ開発の実験的な試みのために、ウェブサービスのコントロールセンターを作ってみました。( ⇒ Web Service)管理者だけがRunとStopの制御を行うことができます。普通に見るだけであれば誰でも、今このサーバーで提供しているウェブサービスの動作状態を見ることができます。最初はDokuWikiの80番とZopeの8000番だけしか考えていませんでしたが、ProjectZero - WebSphere sMashOpenLaszloなど、ウェブサービスと開発環境がバージョンアップしてきて、今後の展開が見逃せないアプリケーションが増えてきたので、自分の勉強したいときに(必要なときに)必要なサービスを起動できるようにした、というわけなのです。...全文

Webservicecc

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読んでいるとニヤニヤしてしまいます。

 

 最近夢中になって読んでいるのが、ウィリアム・パウンドストーン「パラドックス大全」です。通勤電車の中で読んでいるのですが、あらゆる文脈にちりばめ られた小さな論理のパズルが、読み返すうちに理解できることがわかると、ひとりニヤニヤしてしまうのです。この本は論理学や哲学の「逆説」について紹介 し、その論理的構造を解説している(そして推考している)本です。好きな人しか読まないでしょうね。...全文

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知っていること、知らないこと

 最近サーバーパソコンの入れ替えをしました。会社で使っていない(そしてスペック的に使えない)パソコンが、資料の下で眠っているのは可哀相なので、ウェブサーバーとして生き返らせようというわけです。ハードディスクは40GBしかないけれど、Abyss Web ServerZopeWebSphere sMash (Project Zero) と Filezilla と Open LaszloSubsonic と…、他にも PHPPython 関連のフレームワークをいくつかインストールして、なんとかサーバー機としての体裁を作り上げました。元のサーバー機は少しだけスペックが良く、ハードディスクも80GBあったので余裕がありましたが、40GBでFTP領域にバックアップのツール類などを入れて、残り10GB余りということで、実用上は問題ないけれどちょっと窮屈だなぁと感じています。

 以前のサーバー機は停電や誤操作以外では停止することがなく、ノンストップ&スムーズでとても優秀でした。今回は世代が少し前のパソコンということと、無線LANが内臓ではなくカードになっていて、なんとなく不安です。それが証拠に、先日留守をしている間に突然停止したようで、原因は調査中ですが、ちゃんと面倒を見てやらないといけないサーバーになりました。どの道、個人的なテクニカルエクスペリエンス向上を目的にしていますから、ダウンOK(いや本当はOKじゃないけど…)、失敗は成功のもと!ということで、経験を積む代償としてのサーバーダウンは、やがて自分の技術の糧となるでしょう。はぁ、そう願いたいものですね。


Webappmodel  最近ブログは留守にしていましたが、その間に上述したサーバー機の入れ替えや、ActionScript の練習などをしていました。自分のウェブサーバーは、ベース言語として PHP が動いています。データベースアクセス(MySQL)やダイナミックなページ生成(SmartyCodeIgniter)にも PHP が活躍するわけですね。ActionScript とは AMFPHP というライブラリを使うことでバイナリデータの受け渡しをしていました。当初は JSON 化したりしないとだめかなぁと、少し面倒くさく感じていましたが、AMF プロトコルではオブジェクトをそのまま PHP から ActionScript へ受け渡せるので、大変便利で強力です。そんなことを重いながらガリガリとコードを書いていたら ZendFramework 1.7 がリリースされましたね。標準で AMF プロトコルに対応していて、DojojQuery(次のバージョンだったっけ?)も取り込んでいる様子です。イスラエルから来た PHP が、大海嘯の如くウェブスクリプティングとRIAの世界を飲み込もうとしています。既に Aptana などに見るように開発環境では Javascript ライブラリと CSS、HTML、XML は相互関係にあって、昔のように疎遠ではなくなりつつありますから、なおさらこういった動きは続くでしょうね。

Ria  対するマイクロソフトも VisualStudio2008 向けに Silverlight2 Tools を正式リリースしました。本質的には Expression Brend を使いたい(Adobe なら Dreamweaver や Flex Builder でしょうか)ところですが、コードベースの開発であれば、VS2008 でまったく問題なしです。ただし、XAML でガリガリ書くことを厭わないことが前提ですけど。サンはそういう中で少し遅れをとっていますね。Java7 のリリースで JavaFX が正式にインクルードされると声高にささやかれる中で、いまさらの 1.6.0_10 …。ま、NetBeans 6.5 のリリースもありましたし、プレビュー版は手に入りますからいいでしょう。ただし、NB6.1 ではプラグインとして簡単に導入できた JavaFX が、NB6.5 では見当たらない(探し方が悪い?)のですが、これはいいのでしょうか?

 と、RIAの世界は今のところ FlexSilverlightJavaFX の三つ巴になっています。個人的には CurlOpen Laszlo に頑張って欲しいところなのですが、何分「他人の褌で相撲を取る」ためのフレームワークですから、メジャーになるのは難しいのかなぁ?一部の基幹システムやクローズドなネットワークでは使われることがあるでしょうけど、それは CurlOpen Laszlo もあまり願っていないことで、本願としてはメジャーな開発言語となること、なのでしょうね。


 話は変わりますが、「知識」って辞書で引くと、以下のような解説が載っています。

【知識/▼智識】※大辞林 第二版より
(1)ある物事について知っていることがら。
 「そのことについては何の―もない」「茶器についての―が豊富だ」「予備―」
(2)ある事について理解すること。認識すること。
 「幸福とは何かと云ふ事を明細に―して了つてゐるんです/竹沢先生と云ふ人(善郎)」
(3)知恵と見識。
(4)知っている人。知人。友人。
 「貧は今生の―なり/海道記」
(5)〔哲〕〔英 knowledge; (ドイツ) Wissen〕認識によって得られた内容。厳密には、独断・空想などと区別される真なる認識によって得られた客観的に妥当な命題ないしは命題の体系をいう。あやふやな信念と区別され、一般に「正当化された真なる信念」として定義される。
(6)〔仏〕(普通「智識」と書く)
 (ア)仏道に教え導く指導者。導師。善知識。
 (イ)善業(ぜんごう)を積むため、寺院や公共物の建設に金品を寄付すること。
 (ウ)心が、その対象物を、心の外にある実在物とみなす働き。

Ai  (6)の意味はちょっと違うけど、基本的には「知っている事柄」や「理解・認識」を指すわけです。だから、当然のこととして「知らないことは知識ではない」ことになります。しかしながら、知らない知識の中には個人にとって有益な事柄があるはずで、それを知る術がないからこそ「知らない」訳です。だから、そういった情報の方から人間に何らかのアプローチがあると、「知るチャンス」を得ることができます。そのチャンスをつかむことで「知っている事柄」や「理解・認識」を増やすことができるというわけです。

 「知るチャンス」を作る方法はいろいろあると思いますが、ひとつにはニュースフィードを斜め読みすることがあります。ニュースフィードひとつひとつは人間がソースを作り、コンピュータが自動的に集約して配信している情報なので、ニュースサイトに属するという意味では特定のカテゴリに分類されていますが、たくさんのニュースサイトから得られる情報はある意味、未分類で情報の価値は未知数ということになりますよね?自分のホームページでは技術系のニュースフィードの閲覧や、一般ニュースフィードの閲覧を行う試みをしていますが、Coolirisを使った閲覧に加えて、更に一歩進んで時系列でインタラクティブにニュースを斜め読みできるプログラムを作って見ました。まだ未完成ではありますが、ドラッグしながらクルクルとニュースインデックスを見ているだけでも、そこに現れる単語に自分の脳が反応する瞬間があったりして、新鮮な驚きがあります。その時、「知るチャンス」をつかんでいるわけで、その先にあるニュースの本文や関連サイトへジャンプしたとき、自分の知らなかった世界がある、というわけです。なんだかすごいね。

Rssinteractive

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「情報を処理する」ということ (5)

Infocomputing  全5話に渡って私的な意見を書き綴った。内容は、コンピュータにおける情報処理とそのリテラシの変遷や、情報に焦点を当てたテクノロジの進歩について、である。僕自身がコンピュータ・プログラマであり、仕事や趣味においてさまざまな情報を扱う者として、「情報を処理する」ということについて考えてみたかったのだ。そういった職業に就いていない人々もさまざまな情報を自然に(特別に意識することなく)扱っているのだが、それはお膳立てされた手段によってのみであり、それ以上の扱い方を知らないし知る必要もないだろう。すなわち、仕事や娯楽に支障がなければよい訳であるが、そこに潜んでいるかもしれない情報の価値は、残念ながらそれで頭打ちなのである。「情報」というものは静的な存在ではなく、常に動的であるとみなさなければならない、と思う。たったひとつのデータでも、ある方法や分類で集計したり、可視化や統計的手法を用いたり、誰もが操作することができるようになると、情報の価値が無限に広がっていく。そして、コンピュータ・プログラマは、その手助けをする仕事なのだと思うのだ。ある側面では、このような情報の扱い方を変えたり、提案したり、情報処理システムの環境を整備する能力を持っているということになる。また別の側面で(むしろこちらの方が尊敬の眼差しで見られることが多いが、ほとんどのエンジニアは偉くもなんともなく、ただその能力を持っているだけか、仕事として作業しているだけかも知れないが…)、人間の思考や想像を、コンピュータの論理や表現に変換するという、翻訳者のような側面がある。コンピュータは言うまでもなく計算機であり、その内部は真(true)か偽(false)かという、完全無比な論理の世界だ。組み込まれた論理に従って入力された情報を正確に判断し、記録し、定められた方法で加工された情報を出力する。一方の人間は、論理的な思考能力(理性というべきか、だが個人によってその判断基準には差があり、同じものなどない)を持ちながら、TPOによって異なる感情や感覚、曖昧な記憶によって自己のアイデンティティの存在を確認するという、極めて柔軟な(だが曖昧で不安定な)存在だ。その相反する世界をどうやって結合させ、人間の代わりに仕事をさせ、夢の世界を画面や特殊なデバイスの上で具象化し、如何にして便利で差別のない安心な社会システムを構築するか…。技術者はその間に立ち入って、人と機械の双方に優しいオブジェクト(デバイス、環境、インフラ、…)を作り出す。そして、コンピュータ・プログラマはそういった開発現場の先鋒として、プログラミング言語を巧みに操りながら、コンピュータに人間の考え方や社会のルールを教えているのだ。完璧に論理的な世界に、観念的な世界の論理を、どのような形で教える(=プログラミングする)べきか、その能力を駆使してコンピュータと対話するのである。さらに突っ込んだ考え方について、このブログの後半に記したい。

 ソフトウェア開発の分野には大きく分けて、スタンドアロン、ネットワーク、エンベデド、オートメーション、コンピューティングの5つの分野が存在すると考えられる。それぞれの分野はさらに細かく別れていて、そのカテゴリに応じて開発環境やターゲットシステムは異なるが、何らかのプログラミング言語を用いてソフトウェア開発をしているという点で共通している。また、昨今の情報インフラには分野の垣根を越えたシステムが続々と登場しており、それらに従事する技術者に求められるスキルも膨大で複雑なものになっているのだ。

Mappy  スタンドアロンの分野はパソコン用アプリケーションやゲームソフトなどである。パソコンのソフトウェア開発環境は今やマイクロソフトがその独壇場に登り詰めたかに見えるが、実際に利用されている言語の統計を採ると、Visual Basic でもなく C# でもない、サンの Java 言語がもっとも良く利用されている。Java 言語はその実行環境に仮想マシンという概念を設けたおかげで、プラットホームに依存しない開発環境と実行環境を無償提供している。(仮想マシンの概念は、Java 言語の登場以前にすでに存在した。《= Smalltalk など》しかし、当時は構造化プログラミング全盛期で、オブジェクト指向を先取りしていたことから敬遠され、実務的なの開発言語として使われることは少なかったのだ。)Java 言語が時勢に沿ったオブジェクト指向言語であり、急成長するインターネット技術をアーキテクチャの中にに取り込むことで、サーバーとクライアントの両サイドのアプリケーションを容易に開発し、リリースできたことも、普及した要因のひとつだろう。遅れをとったマイクロソフトも、Microsoft.NET というアーキテクチャに Java 言語と同じ概念を導入している。しかし、プログラミング言語やバックエンドに相当の注力をしているにもかかわらず、今一歩メジャー言語になりきれていないのが実情だ。逆に、Java 言語はパソコンの世界から組み込み分野やミクスド・ランゲージを実現するスクリプティング分野へも進出し、今なお成功を納めている言語である。

Network  ネットワークの分野は言うまでもなくインターネットのコンテンツやサービスである。この分野にはコンピュータ・プログラマだけでなく、グラフィック・デザイナなどがソフトウェアを作るようになってきているが、基幹システムやデータフロー部分は、やはりソフトウェア・エンジニア達の仕事である。そもそも Unix で核戦争に備えて開発された通信システムだったものを、研究目的に大学同士がそのネットワークを利用したのに端を発して、世界中の電話網を利用することでネットワークは拡大し、それまでP2Pで行っていたパソコン通信を抱き込んで、現在のようなインターネットと呼ばれる巨大なネットワークになった。この分野のソフトウェア環境は目まぐるしく変化している。言語だけ見ても HTML、XML、Java、PHP、Python、Ruby、JavaScript、ActionScript、Groovy、JavaFX、C#、Silverlight、OpenLaszlo など枚挙に暇がないといってよいほどだ。それを取り巻くフレームワークやコンテンツ管理システムと呼ばれるライブラリやアプリケーションも群雄割拠を呈している。また、ウェブサービスの普及と高速化・簡便化により、ほとんどの作業をブラウザ上でこなすことが可能になってきている。文章や表計算はもちろん、ブログや写真、スケジュールの管理など、あらゆるサービスやストレージが無償で手に入るのである。

Enbeded  エンベデドとは「組み込み」のことである。一昔前まではマイコン内蔵とかファジー機能搭載とか歌われたような、マイクロコンピュータによる分野である。現在ではデバイスの高集積化と低消費電力化が進み、処理できる情報量と速度、そして稼働時間が飛躍的に向上したため、応用分野がここ数年で急成長している。その最たる物が携帯電話であろう。手のひらに収まる大きさでありながら、数十時間着信の待受を行うことができ、音楽や動画の再生はもちろん、日本語入力などのフロントエンドを同時に動かしてメールを送信することもできる。ワンセグ放送などの複雑なデジタル信号のデコード処理もこなさなければいけない。さらに iPhone や Google Android に見られるような次世代の「スマートフォン」へと、スタンドアロンでのパフォーマンスやインタラクティブ性能や、オンラインサービスとリンクしたスケーラブルなデバイスになることが求められている。近年の組み込み機器は、携帯電話だけに限らず、インテリジェントなデバイスになっている傾向にある。パソコンやメインフレームと異なり、あらゆる面でリソースが限定されているにも関わらず、要求仕様は高品質を求められるため、ソフトウェア技術だけでなく、それを補う半導体デバイスの開発をも加速している要因なのだ。

Automation  オートメーションの分野はルネサンス時代から考えれば長い歴史があり、中世の頃の機械化技法から、現代の初期に培われたハードウェアによる自動制御手法を、ソフトウェアで段階的に置き換えるという考え方で発展・進歩してきた。オートメーションと言っても規模の大小があり、小型の機械の運転から工場設備の操業まで、その応用範囲は広い。オートメーションの世界では守るべきものが二つ存在する。それは人命と製品である。もちろん人命が最優先されるのは言うまでもない(中世ではそうではなく、人命は後回しにされていた!)が、工場や機械を自動化しても必ず人間が保守や管理する必要があるし、そもそも機械を運転する必要があるかかもしれない。そんなとき人間を機械の誤操作・誤動作や暴走から守るための技術(=フェールセーフ)が、オートメーションの技術の中で考えられてきたのである。一方で製品のクオリティを守ることと(生産計画に則った)高い生産効率も求められた。人間の手工業では生産できない製品になると、生産設備の機械化がさらに進んで、自ずとオートメーション化されることになる。しかし機械化が進むほどに人命と製品の両方を守ることが困難になることがあり、生産技術(これはメカトロニクス、半導体デバイス、ソフトウェア工学などを含む)が企業を主体にして研究され続けている。(簡単な例を示そう。原子力発電所は人間だけで稼働させることができるだろうか?製鉄所はその昔、随所に人間が立ち入って作業していたが、事故が絶えず機械化・自動化が進んだという。)

Supercomp  コンピューティングとは読んで字のごとく、コンピュータを研究して応用分野を開拓する分野だ。前述したインターネットは、最初 ARPANET と呼ばれ、アメリカ陸軍と大学が共同でフォールト・トレラントな情報伝達の仕組みを考えたものであり、それが広く一般にも応用され、インターネットと呼ばれるようになった。地球上での絶対位置を計測するGPSもまた、アメリカ国防総省が中心になって開発された。その仕組みは人工衛星を中心に、地上局がそれぞれの衛星の時刻データを校正していて、受信局(カーナビなど)は数個の人工衛星からの正確な時刻情報などを受信して、位置と時刻を算出している。しかし、位置計測はGPSの通信セグメントの空いているチャンネルを利用しているにすぎず、主チャンネルは米軍が独自に使用する極秘チャンネルとなっている。スーパーコンピュータの歴史は比較的浅いのだが、その進歩は目覚ましく、四半期毎にランキングが発表されている。(日本勢も健闘しているが、アメリカ勢の猛攻が激しいようだ。売りに出されてしまった国産のスーパーコンピュータ「地球シュミレータ」も、一時は世界の首位に君臨したことがある。)スーパーコンピュータの応用範囲は多岐にわたるのだが、その構造は演算装置の結線の規模や構成が異なるだけで、実は技術的に大きな違いはない。それどころか、膨大な数の演算器を持ちながら、その稼働率は非常に低いというジレンマが起こっており、それをハードウェアとソフトウェアの両面から、高効率化するためのいろいろなアプローチが検討されている。(つまり、コンピュータを100%使い切れていないということだ。)スーパーコンピュータは、高集積化すればいいかといえばそうでもなく、ある特定の分野の計算に限って設計すれば、とても効率的に処理できるスーパーコンピュータを作ることもできる。例えば、チェスの世界王者カスパロフに勝つことができたスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」も、チェスの先手を読むために専用に開発したVLSIを、並列に接続して使っていたそうだ。(言うまでもなく世界一のチェス専用機である。)だがしかし、ここで考えさせられるのは、そうまでしても、やっと人間に勝てる程度であった、ということである。人間では不可能な高次元の計算処理や膨大な情報の高速処理は、到底人間には不可能なことなのだが、逆に言えばスーパーコンピュータを使ったとしても、到底人間の柔軟な思考能力には及ばないということだ。例えチェスで勝つことができても、自由な発想で思考することさえできないというのは、計算機の運命なのだろうか?

 自分は大学卒業後に二度転職した。最初の会社では半導体デバイスの組み立て装置のソフトウェア設計などに携わった。(機械装置の組み込みソフトウェア=エンベデド分野)一年後に学友の誘いで転職して、パソコン用のアプリケーション開発とコンシューマ・ゲーム機でのビデオゲーム製作に携わることになった。(パソコン・アプリケーション、ゲームソフトウェア=スタンドアロン分野)ゲームの世界に区切りつけた30歳を機にして、ゲームよりもそれを支えるハードウェアを学びたくなり、別の業種へと転職したのが現在の職場だが、ここでは工場設備をシーケンスと呼ばれるソフトウェアで動かすオートメーション分野の仕事と、それに付随して動作を監視したり管理するためのソフトウェアを作る仕事に従事することになった。監視・管理ソフトウェアは主にパソコンで動作するが、広義には設備に組み込まれている装置のひとつであるため、オートメーションの一端を担っていると考えられる。その後、大学向けの計測装置やその補助装置のハードウェア設計やファームウェア設計をすることができたし、その過程で uITRON4 互換オペレーティングシステムを開発したりと、エンベデド分野の世界を満喫することができた。また、趣味の世界では自宅にウェブサーバーを設置して、様々なウェブサービスを試験的に導入することで、ネットワーク分野の最新技術に触れている。コンピューティング分野はどうかと言えば、車にはGPSがあるし、携帯電話やPDA(この原稿を書いている小型端末)はもちろんのこと、電子マネーでの交通機関や商業施設での利用、公衆無線や光回線による高速ブロードバンドによるインターネット接続とそこで行うことのできる様々なサービスなど、応用分野はすでに生活の中へ自然に溶け込んでいて、便利が当たり前になってしまっている。

Virtualworld  以前の自分はコンピュータ・ソフトウェアにおける分野について、その見地を広げてみたいと考えていた。それは今も変わらないのだが、ふと周囲を見渡すと、テクノロジの進歩が今までは専門家しか扱うことができなかった分野に、一般人がしかも簡単に足を踏み入れることができるようになっているのだ。テクノロジによって生活が便利になるということは、ある意味で人間が楽をするために想像していた世界が、現実のものになることでもある。さらに一歩踏み込んで考えると、自分の意のままになる世界を手に入れたければ、コンピュータ・ネットワーク上に無数・無限に存在する仮想世界の中に、自分の化身を投じるだけで、性別も人種も行動も(そして、空を飛ぶことも、魔法を使うことも、殺戮することも!)自由になる。コンピュータとはそういう意味では「パンドラの箱」的な存在でもあり、使い方次第で夢を叶える道具か、あるいは虜にして心を蝕む麻薬か、そのどちらかになるのだ。コンピュータ・プログラマの仕事とて、コンピュータを使う以上は同じ現象が起こるのだ。人間の世界は、理性と感情の葛藤に揺さぶられながら、人間関係の駆け引きに辟易し、他人の面倒や経済的・社会的に生き残るための努力が必要など、とても複雑で煩雑で不衛生で何より矛盾に満ちている。ところが、コンピュータをある程度自在に扱えるようになると、情報は個人的な尺度で取捨選択できるし、他人の発信する意見には匿名で反論することができる。また、様々な仮想世界やコミュニティでは自分の思い通りに行動できて、その世界には論理的な矛盾や曖昧さが微塵もない。現代の人間は本質的に、こうした仮想世界を望んでいるのではないか、と思うのだ。面倒や苦労や責任のない世界、食べることも寝ることも必要ない。(もちろん現実世界では必要だが。)時間の制約すらないという、コンピュータが作り出した新しい世界に、一度でも身を置いてその甘美な経験を味わったならば、そこから逃げ出すことはできない。そうして仮想と現実の区別がつかなくなるほどに、現実世界の自分が崩壊し、心を蝕み社会から疎まれていく…。だがしかし、その『仮想世界』は人間が必要として創造したからこそ『現実に存在する』のである。

Pandora
パンドラの箱

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「四法印」を考える (6)

Memex  今回は「一切皆苦」を取り上げる。前回のこの話題からずいぶんと時間が経過しているにも関わらず何なのだが、自分のブログ(『思考の遷移図』)ってブログっぽくないなぁと、記事をアップする度に思っているのだ。ブログはもっと気軽に日記感覚で書くものだと思うのだが、その意思とは裏腹に、どんなテーマの時でもかなり突っ込んだ内容になり、しかもひとつの記事が非常に長い(理屈っぽくてクドイ?)という、なんともブログらしくないブログになってしまっている。いや、実はこれでいてブログの本質を突いているのかもしれない。(内容はともかく…)といいつつも誰かに意見を求めるでもなく、ブログを書くという作業によって、自分自身の考え方や生活を省みることができるので、それはそれでいいのではないかと思っている。そういえば先日ふらりと訪れた本屋で「ブログで"うつ"を治す」というような題名の本を見つけたし、鬱病の治療にも認知行動療法っていうのがあって、日記を書く習慣をつけたり、その日の行動の反省と明日の目標を立てるという様なものもあるから、好きなことを好きなだけ書くブログっていうのも、案外いいのかもしれないなぁ…。ましてや、ブログはネットワーク上で公開されているわけで、誰が読んでいるか分からない緊張感があるので、例え誰も読まなくとも何事に対しても公平で、だからこそ自分に対しても正直でありたいと思うのだ。

 日記やブログとはどんな意味を持っているんだろう。思うにこれらは「その人の・その場所の・その時の・その状況で『考えていること』」をさまざまなメディアに情報として記録したものだ。言うまでもなく、日記はペーパーメディアが中心だし、ブログは電子情報ということになる。だが、何も内容は文章である必要はない。絵や写真だっていいし、ボイスメモって手段もある。ビデオメッセージも面白い。最近ではマインドマップを使おうという人達もいる。ウェブの世界から見ればFlickrやYouTubeが日々巨大化していること、検索サイトがマルチメディア化されていることなどからも、現代のメディアリテラシがどういうことになっているかが伺えるだろう。話を戻すと、日記やブログはそのまま「思考の記録」と言えるものであって、過去の「思考の記録」を読み返すことによって、自分(あるいは他人の)思考の変遷をたどることができると思うのだ。そういった行為そのものを記録する方法があるとすれば、それこそが「思考の遷移図」になるに違いない、なんて考えたりして…。

 復習になるが、「貪・瞋・痴(癡)」から自らを解放する教えが「諸法無我」であり、「業(カルマ)」という無限の因果法則についての教えが「諸行無常」であった。あらゆる物事が原因であり結果であるから、それだけを考えても(目に見える・見えないに関わらず)現世において何一つ変化しないものはないのだ。変化しないものがあるとすれば、それは現世に存在する我々には感じることができないだろう。

 ところで変化が生まれると、何かしら他の変化でもって乱された調和を元に戻そうとするのは自明の理だ。これが生き物(特に人間)なら変化から欲求を、その欲求から次の欲求を、と無限の欲望を抱え込む。これを煩悩と呼ぶのだろうか、うまいことを言ったものである。少し論理が強引かも知れないが、「貪・瞋・痴(癡)」という概念と「原因と結果」といのは、切っても切れない関係にあると思うからだ。例えば人間であれば、この世に生を受けたその瞬間も「原因」であり、そこからさまざまな結果が現れ、再び原因を作り出していく。原因は自分にだけでなく、その人の家族や友人・知人に対しても作り出されるし、逆に他人の結果が自分の原因になることもあるだろう。原因や結果を共有することもある。

Suiren

 そもそも「貪・瞋・痴(癡)」それ自体が原因を作り出す。文明の発達と文化の発展は「欲」無くして有り得なかったと言っても過言ではない。今このブログというメディアでさえ、太古の昔にパピルスに文字を刻んでいた人は考えもつかなかっただろう。それは多くの情報を記録したい、もっと早く効率的に計算したい、記録した媒体を丈夫にそして軽量にしたい、簡単に記録したい、誰もが見れるようにしたい…、みんな欲求である。文明や文化というものはそういう欲望の上に成り立っているのだ。だがよく知っている通り、先を急ぎすぎると「貪・瞋・痴(癡)」の感情が爆発する。それは言うまでもなく「戦争」である。略奪や殺人などの犯罪も、身勝手な欲望が原因で産み出された結果だ。コンピューターの有名な技術論に「フォン・ノイマン・ボトルネック」というのがあるが、天才的数学者だったフォン・ノイマンですら、核兵器製造の片棒を担いだことは有名だ。あのアインシュタインだって同じなのだ。国のため?彼らはどちらも移民だったはずだ。欲望の渦があまりに大きくなると、いろいろなものが狂い出すのだろう。

 こういう話の展開で「一切皆苦」というと、結局産み出されるものはすべて苦しみや憎しみ、痛み、恨みになるのだろうか。確かにそういう意味での「苦」である側面は、文明が発展するに連れて大きくなっているように感じる。ただ、もうひとつの側面として「生」という意味が込められてはいないだろうか。生きているからこそ、苦しみも喜びも味わえるのだし、気の合う同志が集まれば、意思を共有するチャンスが生まれるはずだ。自分は国語学者じゃなけど、「苦」という字は「草が古くなる」と書かれている。草は枯れるが、残された種子がやがて芽吹き、再び青々と茂るだろう。「苦」とは「生」、あるいは「輪廻」と受け取ってもいいのではなかろうか。だがしかし話が戻るが、リアルな生活の中には苦労が耐えないのは事実だ。仏教が産まれた頃と現代とでは社会構造や文明・文化が全く違う。(そもそも仏教発祥の地であるインドには、カースト制度が今でも根強く残っている。また現在のインドでは、仏教は少数派〔1%以下〕でヒンドゥー教が多数派になっている。)また、日本に伝来し普及した「仏教」も、インドから東南アジアやチベット方面など、いろいろなルートを経て中国に伝来し、その中国仏教を日本に持ってきたのだから、内容も捉え方もかなり変化したことは間違いないだろう。(仏典はパーリ語というシャカ族の言葉で残され、伝来の中途ではサンスクリット語や中国語に翻訳された。日本には中国語のまま持ち込まれ、開国までの何世紀の間、そのまま使用された。だから、漢学を学ぶとは中国語で書かれた書物を読むことであり、仏教だけでなく儒学や医学など、出島において西洋の文化が入ってきても中国語は文化人のたしなみだったようだ。といっても、その頃の文化人なんてほとんどいないけれど。)

 いつもの通り、まとまりがなくて恐縮だが、次回のこのテーマでは四法印の最後の文句である「涅槃寂静」を取り上げたい。南無。

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「四法印」を考える (5)

 「業(カルマ)」という言葉は、前回のこのテーマで取り上げた「貪・瞋・痴(癡)」に比べて、日常生活でも使うことがあるので、少しは馴染みがあると思う。ただ、「あの人は業(ごう)を背負って生きている」とか「非業の死を遂げる」などというように、あまり良い意味には使われていないようだ。しかし、仏教が定義する「業」という考え方(または法則と言ってもいい)には、「善業」と「悪業」があるので、俗に使われている「業」のそれとは若干意味を異にしている。(「善行」と「悪行」ともちょっと違う。これは後程説明したい。)

 「業」の本来の意味を簡潔に言うならば、それは「原因と結果の無限連鎖」と言えるだろう。同様の意味を有する仏教用語に「因縁果報」「因果応報」というものがあり(どちらも微妙に意味が異なるようだが)、こちらの方は聞き慣れているし、会話に現れたりすることがあるので、知っている人が多いだろう。「業」はまさにこれらの言葉が示している「原因」「結果」そして「報い(むくい)」であり、「報い」が新たな「原因」になる。人間の一生において、一瞬一瞬に「原因」が作り出されていて、それからもたらされる何らかの「結果」が必ず存在して、それが「報い」となって次の「原因」へとつながっていく。「業」とはそれらが複雑に、そして同時に、さらには並列に進行していく、パラレルワールドだと言ってもいいだろう。この化学反応のような因果の連鎖は、多次元的・複合的に混ざりあったりするので、とんでもなく複雑なのである。人生と言ってしまったが、これはいきとしいけるものすべてにも同じことが言えるし、気象や物理現象などのような、一見すると仏教とは縁のないものにも当てはまるから不思議だ。(むしろそういった科学の世界の方が「原因と結果」がはっきりしている事が多いので、意味を捉えやすいかもしれない。)「カオス理論」なんて言葉が経済や社会現象、科学全般で用いられたりするが、カオスこそカルマが成せる業(わざ)であり、同義語だといってもいいくらいだ。

 ここで四法印の最も重要な要素とも言える「諸行無常」を取り上げよう。この意味は「あらゆる物事は止まることはなく、常に変化を続けるものだ。」というものであった。しかしなぜそう言えるのか?私的考察ではあるが、有形無形を問わず、物事が存在するということは、その存在ということだけで「原因」を産み出しているのであり、当然そこから「結果」が生まれ、また新たな「原因」が…という様に、「原因と結果」が連続していくというシステムが、少なくとも現世には存在しているということなのだろう。「報い」とはいわば「原因と結果」そのものだ。「原因」は「結果」を、「結果」は新たな「原因」を作り出す。そういう現象によって支えられているものが、現世のあらゆる物事なのだと考えると、「諸行無常」の概念が少し理解できる気がしてくる。

 逆説的に考えるならば、変化しないものは当然「原因と結果」を持たない。だから「業」の法則によって「存在」が定義されていると考えると、変化しないものは存在しないということになる。例えば空気は(明らかに存在するが…)暑くも寒くもなく、風も吹いていくて、息をしなくても生きていけるのであれば、その存在を意識することはないだろう。そのように、変化がないと物事の存在が曖昧になってくる。だがしかし御釈迦様は「諸行無常」(=あらゆる物事は変化し続ける)と教えてくれたのだ。言い換えると「業」は必ずあなたとあなたの身の回りにある、と説かれているのだ。

Stormtrooper  冒頭で触れた「善行」や「悪行」は、言ってみれば「原因」の要素にすぎない。以前、マザー・テレサの「あなたの最善のものを…」という詩を転載したが、まさにそれに書かれている通り、人間というものは(誠に残念ながら)不条理で自分勝手であるから、「善行」を積んでいる(と思い込んだりする)ので、何か得をするに違いないとか、全く正反対に「悪行」の数々を犯しても、天罰や地獄なんて信じないし、自分が幸福ならそれでいいなんて思っている人もいる。これは大袈裟ではなく、煩悩を完全に心から消し去らない限り、誰でもが多かれ少なかれ思っていることだ。あるいは、無意識にそうしていることもあるのだ。

 ではどうしたらいいのか?前回では「貪・瞋・痴(癡)」を通して「諸法無我」(煩悩からの脱出)についての私説を述べた。そして今回「業(カルマ)」から「諸行無常」(原因と結果のカオス)について説明してみた。次回は今までの考察を踏まえて、「一切皆苦」について言及しよう。

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「四法印」を考える (4)

 例によって前回予告した通り、四法印ではなく「貪・瞋・痴(癡)」という仏教の概念について考察してみたい。その中で四法印についても言及できたらいいのであるが…。

 仏教をきちんと学んでいない我々にとって、「貪・瞋・痴(癡)」(「とん・じん・ち」)という言葉は、全く聞き慣れない言葉である。少なくとも自分はスマナサーラ師の著書を読むまで知ることはなかっただろう。だが、これらの言葉の意味することは、生きていく上で非常に重要で、しかもこの概念によって人間は様々な行動をし、人生を営んでいくという要素を持っているのだ。

Infinityfloors

 まず「貪」だが、これは「欲望・欲求」を意味している。「美味しいものが食べたい」「お金や宝石が欲しい」「燃え上がるような恋愛がしたい」「海外旅行がしたい」などなど、欲望というものは大小の差こそあれ、誰もが持っているものだ。多くを望まず欲に溺れなければ、それは夢とか希望というものに言い換えられて、人によっては実現するために努力したりする。逆に無謀な欲望を満たそうとすれば、それは当然のように身の破滅をもたらす。こんなことは書かなくても誰でもわかっているに違いないのだが、得てして人間というものは欲望に負けて失敗を繰り返すのである。

 次の「瞋」は「怒り・嫌悪」を意味している。「あいつはなんて野郎だ。」「ピーマン嫌い。」「仕事したくねーなぁ。」という考えはみんな怒りだ。「怒り」というと目くじら立ててプンプンしているというイメージが強いが、実はそれだけではない。自分の思う通りにならないと大抵はイライラする。これは対象物(または相手)と自分自身に対する怒りだ。怒られて嫌な気分になる。これも同じだと言えるだろう。「怒り」の感情は実はとても厄介で、誰かが怒り出すとそれに釣られて違う人が怒り出すことがあるし、第一、怒っている人と一緒にいるだけでとても気分が悪くなる(ムカムカしてくる!)のである。で、これも怒りであって、「怒りのスパイラル」から逃げられないのだ。

 最後の「痴(癡)」は「無知・無能」を意味する。無知と言っても学力とか知識がない、という意味ではない。むしろ、仏教では知識の多さは何の意味も持たないとされているし、事実そうなのだ。無能についても、仕事ができないとかそういうことではない。人には分相応の能力が必ずあるのだ。[親が我が子の失態を叱らない]あるいは[子供の精進を認めて誉めてあげない][大人が社会のルールを守らない][常識的行動、伝統、社会一般のマナーを知らない(箸の持ち方、食事のマナー、挨拶など)]→[知ってても実行しない]そしてその大人を見て子供は育つ。ん?そうなのだ。これも「無知のスパイラル」なのである。もちろん常識的な人、人格者と呼ばれる人は大勢いるだろう。しかし残念ながらそういう人々は氷山の一角であり、その下には大勢の無法者(自由博愛と自分勝手を履き違えている、とんでもない勘違い者たちを、あえて無法者と呼んだ。)が大勢いる。そう考えたとき、自分自身は果たしてどちら側にいるのだろうか?例えるならば、映画「タイタニック」の最後の場面で、主人公の絵師は力尽き果てて冷たい海の底へ沈んでいった。一方のヒロインは命からがら助かったわけだが、自分が言いたいのは誰もが海に沈む可能性があるということ、そして一度沈むと滅多に浮かんでこれないということである。無知は自分自身の無知をも包み隠してしまい、気付かせてくれない。何かの切っ掛けで正しい道を自らが探そうと目覚めたとき、やっと浮き輪が投げられるのだと思う。(これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の寓話【仏典にも似た話があった気がするが】とそっくりだが、少し話が違うのは、糸につかまったのが愚か者たちだと言うことだ。)

 さて、話はここからが本題になる。この「貪・瞋・痴(癡)」をそれぞれ考えたとき、ひとつだけ(例えば「貧」だけ)では成り立たない、ということに気が付く。それぞれは密に疎に結合していて、人間の煩悩を構成する重要な役割を担っている。(いや、担って欲しくないけど。)欲求が満たされず、その状況に耐えかねたとき、人は怒りの感情をもつ。では何故そうなるのかというと無知だからだ。欲求自体が無謀で実現不可能だったかもしれないし、実現するための方法が間違っていたかもしれない。そうして失敗や挫折を味わったとき、恨み、つらみ、嫉み、妬みといった様々な怒りの感情をもつ。それが再び欲望へと昇華される。
 欲望はほとんどの場合、自分にとって都合のいい内容であることが多い。人というのは自分の能力を過信する傾向があるから、より良い環境を得ようとして努力するのだが、ときどき視野が狭くなって足を踏み外すのだ。他人を陥れるような欲望を持つこともある。まぁこれは説明するまでもなく、良くないことだし自覚してそう願ったりするからどうしようもない。

 だから仏教では「不貪・不瞋・不痴(不癡)」を目指すのだ。平易に言い換えればとても分かりやすい。まず煩悩を無くすこと。次に怒らないこと。そして調和を保つこと。(「調和」と言うとあまりに抽象的だが、それくらいでいいのだ。考えすぎないことが大切であって、平和を振りかざす偽善者にならなくてもよい。)これら3つの行動が実践できればいいのであるが、人間というのは簡単にはそうなれないようにできているらしい。(そもそも、煩悩を無くそうっていうのが欲望だよね。)ちなみに小乗仏教の出家僧は、悟りを得るために「不貪・不瞋・不痴(不癡)」の完全なる実践を目指す。そうして御釈迦様と同じ境地に立つことで解脱するのだそうだ。と言っても、実際に悟りを開けたのは唯一御釈迦様ただ御一人で、他には誰もいない。いないけど、結構近いところまで行く人はいる。不思議なことに仏教をあまり学んでいない人でも、様々な人生経験を積んだり苦労してきた人の中には、同様の境地に達する場合があるようだ。つまりは、まっすぐに悟りの道を進むか、正直に生きて悟りの道に辿り着くか、手段は決まっていないということだろう。そういう人に、私もなりたい。(というのは、とてもオコガマシイ。)

 ここで四法印の中のひとつの文言に注目してみよう。それは「諸法無我」であるが、この意味を思い出してほしい。これは「物事に執着することには、何の意味もないのだ。」というものだ。「不貪・不瞋・不痴(不癡)」の境地とはまさに「諸法無我」に通じているのだと自分は考えている。(ある意味では「諸法無我」における方便が「貪・瞋・痴(癡)」の教えであるとも言えるのではなかろうか。)とかく人間というものは、自分という『殻』の中に閉じこもったり、アイデンティティとは何か考えたり、自分の存在価値を見出そうとしたりするが、このことこそが「諸法我」(こんな言葉はないけど)の考え方であり、その『殻』という存在そのものをなくすこと、あらゆる執着を捨てることが、真実の自分を見つけること、そしてその自分の中に仏を見出すこと、これが悟りの道へと通じるのだろう。

※次回のこのテーマでは、「業(カルマ)」についての意見を述べたい。その過程で、諸行無常と「業」とのER(エンティティー・リレーションシップ)関係を考察する。

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「四法印」を考える (3)

 前回のこのテーマの投稿では、少し考え過ぎて後半の部分がヒートアップしてしまって申し訳ない。自分が仏教に興味を持ったのは、立正佼成会との出会いが始まりであった。この宗教法人は法華経の実践的な在家仏教として、戦後の日本に普及した健全な新興宗教のひとつである。何年かの間(現在もだが)、その機関紙を読む機会があったので、仏教に対する抵抗感はなくなったし、いろいろな体験説法を読むことによって、いろいろな境遇を乗り越えた人々がたくさんいるということを知り、たいへん勉強になった。その後、本格的に仏教にのめり込んだ(今は普通に戻ったが…)のは、自分が鬱病になって数ヵ月後のこと、「アイデンティティ」とは何かをいろいろな学問に求めようとした時期だ。その過程で哲学に興味をもったり、自分探しの本などを読んだりしたが、最終的に(何故か)いろいろな偶然が重なって、テーラワーダ仏教に出会った。今でも時々テレビなどで長老のアルボムッレ・スマナサーラ師が、流暢な日本語で瞑想法や仏教のエッセンスを解説するのを目にするので、知っている人も多いだろう。当時の自分はテーラワーダ仏教に“どっぷりとハマって”いた。すべての物事をその教義で考えるようになってしまい、救いの教えであるはずが、逆に教えに縛られてしまい、次第に身動きができなくなっていったのだ。(これはもちろん鬱病による思考の偏りや固執[=粘着気質]による部分が大きいのだが…。)

 スマナサーラ師の説く仏教(小乗仏教)の世界はとても新鮮だった。禅宗に見られるような「空」や「無」などの問答に見るような教義の曖昧さがなく、簡潔でいて時に過激に現世のあらゆる現象を「一刀両断」してくれる。常識的な人が読めばとても気持ちがいいくらいに世の中の仕組みや人生観、そしてアイデンティティとは何かという疑問に言及してくれるのだ。そんな感じの著書だから何冊も読んで、それぞれについて納得し、実践することにした。その中のひとつに瞑想方法のひとつがあって、その文句(呪文?)を呟きながらウォーキングしたり、睡眠時に心を沈めたりした。

いきとしいけるものが幸せでありますように
いきとしいけるものの悩み苦しみがなくなりますように
いきとしいけるものの願い事が叶いますように
いきとしいけるものに悟りの光があらわれますように
いきとしいけるものが幸せでありますように

 この言葉はある意味で叙情的だし叙述的でもある。本来は「いきとしいけるもの」だけでなく「わたし」や「私の親しい人々」、そして「私の嫌いな人々」「私を嫌っている人々」についても同じように幸せを願う。だから結局「いきとしいけるもの」に通じる訳で、これは人間だけでなく自分を取り巻くいろいろなものに幸せと慈しみの心を持つことを意味しているんだと思う。この言葉を繰り返すうちに不思議と心が落ち着いて、自分を取り巻く世界の見方が少しだけ変わった気がするのだ。

 魂とか命とかいうものをについて、自分は他の人とは少し違った考えを持っているのかもしれない。それは「魂や命というものは生物にだけ存在するものではなく、人工物や形のないもの(思想や理念など)にも宿るのではないか?」というものだ。簡単な例で言えば「言霊」とは「言葉に宿る魂」だし、オカルトチックだが「あの場所には何かいる!」というような時に、無機的なものや思想的に「何かの存在」を感じ、その存在こそが魂だと思うのだ。こういう例を出せば、同じような考え方を持っている人がいるのかもしれない。

Chiba1  この考え方をもっと大きく捉えるならば、命というものは森羅万象あらゆる物事に「憑く」ものであるに違いない。人間は「草木が芽を出し、花を咲かせ、実をつけ、やがて葉を枯らし、そして春を待つ」というサイクルに人間の一生を照らし合わせたり、生命の生まれ変わり(=輪廻転生)を想像してきた。現代ではマスメディアによる自由(あるいは勝手)な報道が、多様なマスコミュニケーションを形成させているが、これは情報が生き物のように独り歩きしたり、あるいは進化したり改変されたりというように、ダイナミックに形を変えながら多くの人や別の情報と関わりをもつ様を見ていると、まるで生きているかのように感じとることができる。「情報は生き物」なのだ。権力者の一言、たった一枚の写真、ネットに書かれたデマゴーグ、すべてが生きていかされ

 昔の人はいろいろなものに感謝して生きてきた。それが暮らしの歳時記として現代にもほんの少し残っているが、そういった行事に本来込められていた感謝や敬意などを、われわれはどれだけ感じ取っているだろうか?否、悲しいかな形式的で商業的になってしまっているのであるが、そういった昔の人の精神こそが、万物への感謝や敬意なのであり、それが万物を擬人化する(魂を込める)という創造的行動が具現化していったのだと思う。文明は超近代化している現代であるが、いにしえの文化は大事にしたいものだ。

Chiba2  つまりはモノを大事に使うであるとか、ご飯を残さず食べる、目上の人を敬うというような当たり前の行動の中に、それに関わるすべての物事に命は宿って、その命を尊ぶことができるか、ということだ。人間は食べなければ生きていけない。食べ物は生き物だ。「生き物」には魂がある。また、言葉は発したその瞬間に、力を産み出す。「産み出される」のは命だ。作り出された道具についても同様だ。昔は何百年も使い込まれた道具には魂が宿ると信じられていた。(自分は今でも信じている。)そして、いわずもがな、あらゆる生物、植物、動物、名もない未知の微生物まで、創造神が現世に造りたもうたあらゆる物事に、命はある。いきとしいけるものが幸せでありますように。

※また四法印から話が逸脱しました。多分、次回のこのテーマも脱線するでしょう(笑)

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「四法印」を考える (2)

 前回の冒頭にも書いたが、仏教と一口に言ってもいろいろある。最近ニュースでよく見るダライラマ氏はチベット仏教の最高指導者だし、ミャンマーではビルマ仏教、スリランカではテーラワーダ仏教を代表とする小乗仏教が有名だ。仏教発祥の地であるインドはというと、実は8割がヒンドゥー教徒で、残りはイスラム教などが続く。仏教徒は1%に満たないのだそうだ。そもそも、御釈迦様が悟りを開かれた時代、シャカ族は頭はいいが(いいから、か…)争いを好まない民族だったようで、たびたび他の民族の侵略を受けていた。ちなみに御釈迦(シャカ)様〔本名:ゴータマ・シッタルダ、解脱後は仏陀(ブッダ)と名乗った〕はそのシャカ族の王子で、結婚して子供もいたという。御釈迦様が入滅した後は、シャカ族は衰退の一途をたどり、交易路が陸と海で広がるにつれて、東西から流入してきたヒンドゥー教やイスラム教、シーク教などが浸透していったようだ。
 その後、御釈迦様が説かれた仏教は、スリランカや東南アジア地方へ伝播していく南ルートと、中国内陸部から極東地域(やがて日本へ)に伝播していく北ルートがあったらしい。どちらにしてもヒマラヤ山脈の麓を通過していくルートで、交易と共に伝播していったことは容易に想像できる。南ルートは主に原始仏教を根本としており、現代でも出家制度が生きている国が多い。(スリランカやミャンマー、チベット自治区もそうだ。)興味深いのは、中近東を発祥の地とするイスラム教の普及に逆らって、中近東方面へ伝播していく西ルートもあった。有名なバーミヤンの古代遺跡はまだ記憶に新しいところだろう。仏教遺跡の石仏・石窟としては最大級のものだ。しかし、タリバン政権による破壊活動や石仏泥棒の出現で、歴史的遺産が壊滅的な打撃を受けてしまった。これと似た話に、ヒンドゥー教寺院として有名なアンコールワット遺跡群がある。石組みでできた装飾のすばらしい寺院だが、酸性雨などの影響で遺跡の崩壊が少しずつ進んでいるという。どちらも直接・間接を問わず後世の人間の仕業に間違いはない。神や仏が生活に溶け込んでいた時代の人達は、今の光景を見てどう思うのだろうか?

 前置きが少し長くなった。簡単に再度説明すると「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」という、仏教の根源的な四つの考え方を「四法印」と呼んでいて、その説明を前回のブログに書いた。基本的に仏教はこれらを礎にして、その解釈の仕方や実践方法を説明するためのマニュアルが経典(お経)という形で残された。その経典を翻訳したり、さらにわかりやすく解釈しようとした人達によって、大乗・小乗といった思想の違いや、多くの宗派・分派が存在している。もちろん、初期仏教であるパーリ語の経典をそのまま継承して実践しようとする宗派もある。そういった原点に近い考え方を持つ宗派は小乗仏教と呼ばれ、出家して解脱の修行をする制度がある。また、広い解釈を持つ宗派は大乗仏教と呼ばれ、出家・在家を問わずその実践方法を説く。基本的に出家僧侶は解脱のみを目的に生活することになり、俗世間とのつながりは在家信者からの布施だけとなる。非常に厳しい世界である。

 自分は僧侶でも修験者でもなんでもない「普通の人」なので、ウソをつかない限りは無謀な説明をしても誰からもとがめられないと信じて、あえて言ってしまおう。本来『仏教は宗教ではなく科学だ!』と思うのだ。(サイエントロジーとかじゃないよ。)宗教とは一般には神様や神の託宣を受ける(受けた)人、超自然的な現象や物体、神通力(?)などに感銘を受け、それに基づいて教義を作り、その教義に賛同して集まった人々の社会を意味している。逆算して意地悪く考えると、多くの人々に同じ意思を持ってもらうためには宗教は手っ取り早いのであり、そこに都合の良い教義や神がかり的な存在があればなおさら良い。ときどき御布施をしてもらって、壺とか玉(ぎょく)とかを買ってもらうともっといい。そう言い切ってしまうと、宗教が完全に悪者になってしまうが、そういう宗教もあるということは事実だ。(だから、集団催眠的な効果もあるし、巧妙な応用心理の組織とも言えるだろう。)そうではなくて、(ほとんどの)宗教には良いことがたくさんある。その教義を平和な社会のために用いるならば、多少のテクニックは目をつぶるとしても、多くの人々を集めることができるのだ。、それが世界平和につながるのなら、これほど素晴らしい事はないと思う。肝心なのはその目的だろう。
 それでは現代日本の一般的な仏教はどうかというと、お墓を買うであるとか、永代供養料はいくらですか?とか、何回忌の法事をやるよとか、結局お金がかかるし行事やなんやかやで、信仰とは程遠い気がする。そう、これは法事なんかではなく行事だ。ほとんど人(特に若い人ほど)は、法事だと言うと面倒だなぁって思ったり、お墓参りって何でするの?とか思ってしまいがちである。なぜならそれは、その行為に信仰が伴っていないからだ。だから、仕方がないことなのだ。先祖を供養する心や、自分生まれてこれたこと(自分の先祖)に感謝する気持ちがあれば、多少はイヤな気持ちも晴れると思う。ただ、金品が発生するのは仕方ないが…。
 そもそも、生まれたときにはお宮参り、死んだときには念仏って、日本人は結構都合がいいよね。

入滅

 それはさて置き、『仏教は宗教ではなく科学だ!』と言ったのは、そういう現代仏教に対するアンチテーゼでありたいと思うだけではない。そもそも御釈迦様の説いた仏教は、儀式や行事を重要視していなかったと思うし、「生活に密着した正しい考え方と実践」が仏教だと思う。ここで再度「四法印」を思い出してほしい。「諸行無常」は「あらゆる物事は常に変化し続ける」ことを、「諸法無我」は「あらゆる物事には執着する意味がない」ことを言っている。「一切皆苦」の意味はまさに「諸行無常」と「諸法無我」を合わせて、具体的に現世の生き方を指し示しているとも言える。これらの考え方の中に、何か宗教的な匂いを感じるだろうか?よく考えてみれば「あらゆる…」という二つの文言は、現実世界と人間との調和について、その事実を言っているのに過ぎないのではなかろうか?

 「あらゆる物事は常に変化し続けるが、それに執着することには何の意味もない。その真理を理解して実践できるようになることこそが解脱なのであり、悟りを開くということである。」というのが、御釈迦様の説いた最も基本的な教えであったとすれば、それは現世を観察して得たリアルな世界観なのであり、事実という点で科学だといえる。確かに数式とかそういうものはないけれど、どの文言をとっても反論の余地がない事実だと思うのだ。

 (「業(カルマ)」という仏教の法則があるが、これは完全に科学であり、未来を予測する考え方である。これについては、またブログで紹介する。)

 自分自身の今この瞬間を考えてみる。まずこうしてブログを書いているので、パソコンと自分の指が動いている。隣で妻が日記をつけているので、何かしら動いている。はな(犬)はベッドで寝ているが、呼吸をし耳をピクピク動かしている。一見動いていないと思える家の壁や今は見ていない(動いていない)テレビだって、色褪せたり壊れたりするだろう。(実際、テレビは壊れている…。)ということは、常に変化しているということだ。変化と言っても物事や観察する立場によってその時間間隔は違うだろう。
 そろそろお風呂に入る時間なのだが、そんなこと誰が決めたのだろうか?今日一日くらい風呂に入らなくてもいいだろうに…。でもそういう訳にはいかない。明日になって会社で自分の体臭を振り撒き、他の人の迷惑になってしまうかもしれない。大体、なぜ会社に行かなくてはいけないのだろう?お金がほしいからだ。お金がないと食べていけない。ほしいものも買えない。人間って生きていくのにそんなにお金が必要なのだろうか?そもそも贅沢って何なのだろう?質素ってどのくらいの生活レベルのことをいうのだろう?こうやって、いろいろと考えを巡らせているけれど、そのこと自体に意味があるのだろうか?「自分」というちっぽけな存在が、何かを考えて何かを起こせたとして、何かが変わるのだろうか?そもそも、何も起こせないんじゃないのか?

 御釈迦様が言いたかったことは何なのだろう。御釈迦様だって悟りは開けたけれど普通の人間だったわけで、食べないと死んでしまうし、少しは人の世話にもなっただろう。自分でも意味不明な広大な思惑を、眠ることも忘れて考え続けたかもしれない。解脱とはもちろん悟りを開くことを意味する。御釈迦様は悟りを開かれたにもかかわらず、入滅(=死ぬこと)した。結局は人間である以上、生老病死の苦から逃れることができないということなのか?

 少しディープな内容になってきたので、この続きは次回とする。

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