« 鬱病(27) 言い表せないこの感覚 | トップページ | 鬱病(29) 僕は今、宣言する! »

鬱病(28) 精神と肉体の連結あるいはその関係

 精神あるいは思考、心や思想といったものの本質とは何なのだろうか。それらはすべて脳の中で起こる電気的な興奮状態と、それらを記憶したり思い出したりする生理現象全般を指す脳神経系の活動である、と一連の言葉で説明することは誰にでもできる。だが果たしてそれだけで済むかと言えば、僕はそうではないと思う。なぜなら精神の活動は肉体の活動に結びつけられていて、(それが意識的であれ、無意識的であれ)互いに連動しながら活動することがあるからだ。あるいは逆に肉体の活動が精神の活動に影響を及ぼすこともあるが、こちらは文字通りフィジカルなことなので理解するのに難しくない。肉体の活動とは体を動かすことだけではなく、五感で感じることも肉体の活動だと思う。僕が今「精神」と「肉体」を切り分ける基準にしている見地は「外部からの情報がない状態で行う脳の活動」を「精神」の活動として、それ以外を「肉体」の活動としている。そういう意味で、精神と肉体の関係はとても興味深いものだし、それをどう扱うかという行動が、すなわち人間活動の原動力なのかもしれない。

Aroundthehead

 実はここにきて会社を休んでいるのである。週始めの火曜日(月曜日は祝日なので…)は出勤した。が、体調が芳しくなかった。その日の夜中に頭痛で目が覚めた。(痛みで目が覚めることほどイヤなものはない。)救急車を呼んでも良いのでは?と思える頭の激痛に苦悶しながら、睡眠薬の効果も相まって再び眠りについたのだが、次の日は昨晩の名残のような鈍痛と倦怠感で出勤できる状態になかった。その次の日になってようやく回復したのだが、大事をとって休んだ。そして金曜日、さらに回復しているといいなぁと思っていたのも束の間、再び頭痛が…。それは「なんだか胸騒ぎがする」痛みであった。案の定、午後になって痛みが激しくなり、頭痛薬(処方箋でもらった少し強いもの)を飲んだが、すぐには効かずに悶絶することになった。暑いから痛いのか?会社休んでるから痛いのか?愚か者だから痛いのか?いろいろ考えたが、その考えがまとまるわけもなく、苦悶の中で安定剤の助けも借りて眠りに落ちた。
 (自分自身に対して)何が不満だというのだろう。何を(あるいは誰を)気にして、何に神経を尖らせて、そして心を擦り減らしているのだろうか?体調を取り戻そう、もっと楽に考えようと抗うほどに、胸が締め付けられるのだ。何故だ?

 肉体から精神に働きかける活動は、人間活動の何割を占めているのだろうか。睡眠中は意識的に情報を得たり動いたりできないのだから、除外してもよいと思う。残された覚醒している時間は、そのほとんどを外部から情報を得て行動する、肉体主導の活動と言えるのかもしれない。食事する、移動する、会話する、感動する…、人間活動の大部分は外部入力された情報を処理して、脳というCPU(中央演算処理装置)で記憶と照合したり、理性と葛藤したり、感情に流されたりして、ある種の結論を出し、それが最適解か局所解かあるいは誤りかを判断しながら、再び外部出力へ情報を流す。その結果、食事を続けたり、車の運転をしたり、抱き合ったり、涙を流したりして、時間が経過していく。もちろんそういう行動は記憶に残ることもあるだろうし、忘却の彼方へと過ぎ去っていくこともあるだろうが、どちらにせよ脳で処理しているということは、揺るぎない事実だろう。三段論法的に結論付ければ「ヒトの行動は脳の成せる業」ということになるだろう。
 そこに占める精神の割合はいかほどなのか?それには「精神」という言葉の定義が必要だが、仮に感情や思考を司る神経系を使うかどうかということにしたならば、時代の変化と共に占める割合は減っているのかもしれない。無機的で数量化され、オートメーションと情報化が高度になればなるほど、人間活動から「心」が失われていくような気さえする…。事実そうなのだと思う嫌いはどこにでもある。昨今の身勝手な犯罪にはネット社会という一見すると高度な情報化社会を象徴するような一面がある一方、そのような人間関係の粗野で希薄な「ネットワーク」が存在している。あるいはネットワークとはいえないのかもしれない。本来ネットワークとは縦横無尽で密度を増していく存在であるはずだ。にもかかわらず仮想的なネットワークが高密度化する一方で指数関数的に反比例するように、ヒトとヒトのネットワークは疎遠になり、親子や夫婦という関係すら形骸化していく。ある意味、恐ろしいことでもある。

 精神の活動は謂わば脳の活動でもある。それは上述してきたことでも明らかであるように、予測に難しくないと思うのだ。(だがあるいは、集団催眠的な消費活動やコマーシャリズムによる情報操作など、無意識的な部分もあるかもしれないが、それとて脳の活動であることに他ならない。)「虐待」は肉体的苦痛を伴う卑劣なものだが、見方を変えると精神的苦痛を与えるもっとも効果的な方法とも言える。そして、苦痛という記憶はある程度の量であれば忘れてしまったり、時には美化されてしまうことさえある。その「ある程度」を越えてしまったとき、ヒトによってそれぞれ異なる処理が行われる。ある人はトラウマとして封印し、年月を経てその苦痛を他人に発散する。またある人は心の内側から少しずつ自分自身の人格を失っていく…。
 虐待は極端な例であるが、精神的苦痛というものは、どれも質や量が異なるというだけで、本質は変わらないのかもしれない。だから他人から受けた苦痛も、心が作り出す苦痛も、やはり本質的に同じものなのだと思うのだ。鬱病になるひとには真面目なヒトが多いというが、100%でないにせよそれは当然なのかもしれない。真面目(という定義は広いかもしれないが)であるほどに、仕事や家事を正面から捉え、問題を直視し、自分で解決しようと躍起になる。それが少しずつでも円滑に進めば問題はない。だがしかし実際には解決できないことのほうがはるかに多いのだと思う。(まず第一に世界は自分中心に動いていない。第二に他人は自分と同じようには考えない。第三に社会活動には経済の概念がつきまとい、さらに偏見というものが付いて周る。)自分の心の中に抱え込んだそういう矛盾は、やがて「精神の苦痛」へと昇華されていくのだ。ストレスが原因といってしまえば簡単だが、うまく世間を乗りこなすヒトがいる一方で、そうでないヒトもいる。自分自身が作り出す精神的苦痛は、だから厄介なのだと思う。世渡り上手なヒト、あるいは鈍感なヒトからみれば取るに足らないことも、当の本人には重大な悩みの種なのだ。

Mansitbuilding

 そしてその精神的苦痛が肉体的苦痛を生み出す。時折頭が痛いくらいならまだいいだろう。しかしそれが積もり積もって心の許容量を越える頃には、取り返しがつかないことになってしまう。鬱病もそのひとつだ。躁鬱病になるヒトもいるだろう。原因不明の統合失調症や失語症になるヒトもいるだろう。完全に精神に異常をきたして、正常な判断ができなくなるヒトもいるだろう。そういった人たちはみんな、変貌してしまった自分の心に恐れおののき、昔の正常な自分に戻りたい、楽に思考できるようになりたいと願う。その中で肉体的な苦痛とも戦うのだ。睡眠障害、摂食障害、疼痛、倦怠感、慢性疲労、思考力の低下、意思の減退…、自傷行為を行うものもいる。これらの症状は精神が作り出した肉体の症状なのだ。精神的苦痛が肉体的苦痛を生み出すのだ。自虐というべきなのか?こういう現象を考えると、精神と肉体は密接に連結していると思わずにはいられないのだ。

|

« 鬱病(27) 言い表せないこの感覚 | トップページ | 鬱病(29) 僕は今、宣言する! »

心と体」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/189978/45907136

この記事へのトラックバック一覧です: 鬱病(28) 精神と肉体の連結あるいはその関係:

« 鬱病(27) 言い表せないこの感覚 | トップページ | 鬱病(29) 僕は今、宣言する! »