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鬱病(24) 回復≠復活?

 最近は体調が少し安定してきて、会社には健康だった時と変わらずに出勤できるようになった。とは言え、突然体調が悪くなって早退したり、休んだりすることもあるが、出勤ということだけ考えれば、なんとか合格だと思いたい…。
 もちろん、以前と同じように仕事ができるはずもない。それでも書類を作ったり、マイコンのプログラムを修正したり改造したり、納品する荷物の確認や梱包など、いろいろな作業を通して仕事の勘と調子を取り戻しつつある。思考力と判断力が低迷しているので、何かミスをするんじゃないかと、いろいろと気にしたり考えたりして頑張り過ぎると、頭痛やめまいがして薬の世話になるのだが、それもこの一ヶ月は数回程度と落ち着いている。
 ただ、平衡感覚が鈍ってフラフラすることと、いつも頭の中がボンヤリしていて、「考える」ということができないことがとても気になる。けれど、どうしようもない。だって、頭が働かないから。これが今の悩みなのだ。

 ここまで書いて「本当に回復してきているのか?」という疑問が湧いてきた。どちらかというと数ヶ月前に比べて、体調が悪くなっているのではないか?よく眠れない、緊張して吐き気がする、漠然とした疎外感や空しさを感じる、などの症状があるのは何故だろう。徐々に回復して以前の自分に戻るにつれて、ストレスを処理できない自分も戻ってきているというのか?職場においても、いきなり頭の中が真っ白(真っ暗?)になることがある。まったく何も考えられなくなってしまい、どうしていいのかわからない。そのことに抗うように何とかしようとすると、次には強い眠気がやってきて、やがて朦朧としてくる。そんなときは、その後の混乱状態を避けるために、抗不安薬や頭痛薬を飲んだり、顔を洗ってみたり、外の空気を吸ったりする。するとやがて復活することが多いのだが、そうでない場合は早めに家に帰って休息するしか手段がない。

Depressiongraph

 鬱病の正式な名称は「大鬱病エピソード」といい、その中でも症状によっていろいろなパターンがある。エピソードとは文字通り「挿話(文章や物語の途中、演劇の幕間などに挟む短い話)」のことであり、医学的には正常な状態に現れる、異常な状態の継続を意味していると考えていいと思う。(正確な解釈は少し違うが…。)

Rihaoffice  ところで、どんな人でも社会生活を営んでいる限り、鬱屈した気分や抑鬱した状態になることはよくある。まして先進国では、高度な文明と多様な文化を手に入れることと引き換えに、魑魅魍魎にも似た理解しがたい社会現象もオマケで付いてきて、それがストレスとなって時空を問わず溢れている。途上国であっても、先進国の介入や民族・宗教的な摩擦、稚拙あるいは独裁的な統治体制などが原因で、ストレスが発生してしまっている。そんな中で生きていくためには、ストレスをうまくコントロールするよりほかない。放置されたストレスはやがて抑鬱気分へと変わって、自覚の有無にかかわらず肉体や精神を蝕んでいく。ほとんどの人は、そうなる前にストレスを上手に「発散」することができる。ストレスがない人っていうのは、かなり鈍感な人か、悟りの境地に達することができた人など、どちらにしても特別な人だけだ。普通の人は常にストレスの「被爆」と「発散」を繰り返していかねばならない。「発散」が滞るとどうなるか?心のバランスが乱れて、計らずも精神と肉体の限界に挑戦してしまったり、逆に良くないと理解しつつも飲酒や薬物や暴力へと「収束」していく。やがてその収束された心の糸はプツリと切れる。これが挿話の始まりだ。そして切れた糸は簡単に結び直すことができない。なぜなら、ピーンと張っていたために余裕が無かったから。糸の結び方を問わず、結び直すためには「余裕」が必要だ。その「余裕」を作るためには十分な休息と、通院による投薬と心のケアが必要になる。

 今の自分をよく考えてみる。去年の2月始めに希死念慮から病院に行き鬱病と診察され、休職して通院と療養を余儀なくされた。まさにその時、ストレスが最高潮に達して心の糸が「収束」状態になり、そして切れたのだ。その後、リハビリ出勤できるようになったのは8ヵ月後である。不規則な午前出勤、遅刻と早退を繰り返しながら、冒頭にも書いたように、今では元の状態に戻りつつある。療養中に心の糸に余裕ができて、リハビリで結び直すことができたということだ。しかし今、その結び目の部分に再びストレスが加わってはいないか?
 鬱病は再発率が高い病気とも言われている。それは、この糸の例えで考えればわかりやすい。本来はその後も適切なリハビリで心の糸の結び目を目立たないように繕っていかなければならない。しかし、再びその結び目が切れた時、その修繕作業はさらに時間がかかることになる。さらに問題になるのは、何度も結び直した糸は切れやすくなるのだ。

Draque  以前のようにコンピュータソフトウェアに携わる技術者として、妻と犬との楽しい家庭のよき夫として、さらには自分の能力を120%発揮できるような、そんな人間になりたいというのが昔も今も変わらない願いだ。病気になる前の自分は、ストレスの中にあってもそんな希望や目標に向かって努力していた。ここで疑問に思うのは、そんな「元の自分」への復活が、鬱病の回復だと考えていいのだろうか、ということだ。「元の自分」に戻ってしまったら、また悩んで心の糸が切れはしないか?
 時間とは必ず未来へと進んでいく。空間とは何処でも変わらずに存在するように思いがちだ。だがしかし、よく考えてみると、変化しないものなど一切ありえない。(理由は統計学的にも、物理学的にも、量子力学的にも、社会科学的にも、どうにでも説明できる。)ということは、「元の自分」に戻るための手段も、当然変化してしまうのだなら、考え方を変えなければならないということなのだろうか。

 今はまず、一歩だけ先の未来に向けて努力しよう。そして、さらにその先のことはもう少し余裕ができてから、「別の自分」への復活を楽しみに期待しよう。そういう風に考えれるようになりたいなぁ。

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