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鬱病(18) 「自由」という名の「勝手」

 このところの数週間はいろいろな心の変化やストレスがありながらも、ようやく本当の回復の兆しが見えてきたように思える。ジェイゾロフトとパキシルを試してきたが、自分にはデプロメールが一番相性が良かったようで、イライラ気分がほとんど無くなったと言ってもいいくらいだ。おかげで考え方が前向きになって、冷静に(というよりも論理的に筋道を立てながら、かな?)物事を考えることができるようになってきた。今回の診察でデプロメール×3のジェイゾロフト×2になり、デパスとハルシオンも量が減った。相変わらず「脳が熱い」感覚が少し残っているものの、当初のそれよりは楽になった。再び躁状態になったのでは?という疑問も湧いたが、どうやら違うようだという自覚がある。何故なら、焦燥感や自責念慮がないのである。もちろん希死念慮もない。
 やっと再出発の場所に立てた気分だ。がしかし、急いだり余所見をしていると、足を踏み外して再びあの「泥沼の底」へ転落してしまうだろう。一歩先の足場を固めて着実に前進していく…。これは、自分への決意でもある。
 なぜ突然考え方が変わったのだろう? 休職させてもらって半年が経過しようとしている。その間にいろいろな知識と経験を得たことは確かだ。その蓄積と休養が、今になって実を結ぼうとしているのか…?

 体調が悪くて家に閉じこもっている時間が長かったのだが(今も外出には慎重であるが…)、逆にそれは自分に自由な時間ができたことでもあった。少し調子がよくなると、パソコンに向かって何かの作業(インストールとかネットサーフィンとか、つまらない作業)をすることができた。もう少しよくなってくると、外食やショッピング、実家に帰省するなどの外出リハビリができるようになった。

自由と勝手 そんな中で気が付いたことがある。『自由とは「わがまま」である。』ということだ。国語辞典で“自由”を引いてみると、一般的な意味「他からの強制・拘束・支配を受けないで、自らの意思に従うこと」とあり、それに並んで「物事が自分の思うままになるさま」「わがまま」の意味がある!「自由な時間」は「わがままな時間」と言い換えることができるわけだ。抑うつ気分が晴れない間、鬱病の当事者は自分の考え方や身勝手さの結果についてや、自分が置かれている状況と未来への展望に、理由のない不安を抱いているのである。(事実として不安要素は多数あるのだが、抑うつ気分の下では論理的に考えることができない。)これが鬱病の一番怖い点だと思う。そうやって自分を追い詰めて、「正しい自由」を「誤った自由」に捻じ曲げてしまう。それは、生きることに希望を失うことで、自ら「死」を選択するという自由である。自分の命だから自由に使ってもかまわない…、果たしてそうだろうか? その人は自分の命を自分で獲得したのだろうか? 否、あとは言わずもがなであろう。

自由と勝手  別の見方もある。『自由を与えるということは、自らの自由にはならない。』ということである。この事実は勘違いしやすい。誰かに対して「貴方の自由にして下さい」と示唆することは、「自分には貴方の自由を受け入れる覚悟があります」ということだ。しかし実際にはそうはならない。必ずその「自由」には条件が付いているし、人間は誰しも自由を享受したいのだから、他人の自由を受け入れるのには限度がある。所詮、(自他を含めて)人の心を知ることはできないし、容易に人の心を動かすことはできないのだから、自分も相手も社会も思い通りになんかならない。そういう意味で、自由と勝手は紙一重である。現代においては同義といってもいい(かもしれない)。
 こういう考え方をしてしまうと退廃的に聞こえるかもしれないが、今の日本を見てみれば「自由」の実情がすべてを物語っているように思う。それでも、自分なりに社会の仕組みを理解したことで考え方が楽になった、というと少し寂しくならないでもないのだが…。

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コメント

昔読んだ本に「自由を得たいなら、同時に孤独を覚悟しなさい」と書いてあり、なるほどなあと思ったことがあります。あの頃の私は孤独を好まなかったから、自由でいたくてもそれを選ぶことはしなかったこと、思い出しました。今は昔ほど孤独を嫌ってはいないのですが、やっぱりそれは本当の孤独を体験していないから言えるのかもしれない。あなたは苦しかったとき、孤独を感じましたか? 話の趣旨が変わってきちゃいましたか? このブログを読んでいて、ふと訊ねたくなりました。

投稿: めぐみ | 2007/07/26 19:51

う~ん、なるほど…。

いつの頃からか覚えていませんが、コンピュータの世界に足を踏み入れたのと同じ時期に、孤独に対して鈍感になっていったように思います。よく言われるように、コンピュータは自分の指示したとおりに動作するので、その小さな仮想世界の中に自由を得ることができるのですね。しかし、その世界が安穏として居心地が良すぎで、現実世界に戻れなくなる人もいますが…。どちらにしても、仮想世界の自由を知ってしまうと、孤独が苦しいことを忘れてしまうのでしょう。

自分が苦しかったとき、孤独は感じなかった。感じなかったというよりも、常に孤独であったのかもしれません。こう言うとあなたは悲しむかもしれませんが、自分にとっての孤独と愛情は、同じように比較できるものではないのだと思います。

こういう事って、直接あなたに話をすればいいのでしょうが、文章にして間接的にやり取りすることで、一度頭の中で整理されるので、おかしな方向に話が反れなくていいかもしれませんね。

投稿: Daisukeh | 2007/07/27 17:02

先程の内容に追記するならば、苦しくても自分の問題を解決できるのは自分自身しかいない、という考え方がありました。もう少し詳しく言うと、義理や人情はとてもありがたいけど、結局実質的な作業と決断は自分でやらなきゃならない。そういう点では誰もが孤独なのだ、という論理は少しおかしいかな…。

このあたりの話については、コミュニケーションについて一過言したいと思ってますので、今後また記事にしたいと思います。

投稿: Daisukeh | 2007/07/27 22:26

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