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生き方の論理性

 このブログの「思考の遷移図」、「情報の論理性、雑感」でも書いたことだが、さらに意見を述べたい。人間は生きている以上、幸福で豊かな人生を望んでいるのであり、そのために文明や文化といったものが発達してきたのは言うまでもない。その過程で人類は「試行錯誤」という思考作業を繰り返してきたはずだ。その集大成が現在の文明を支えてきているし、その恩恵を受けなければ生きていくことは難しい。もちろん、文明・文化は地域や時代に応じて変化するから、日本人とアマゾンのインディオとでは暮らし方が違って当然であるし、求めるべき幸福も違うだろう。また、同じ文明の中にあっても、思考能力や知識、そして環境に影響されることで、各個人の生き方とその方向性は異なってくると考えられる。

 「人生の転機」とか「人生の岐路」という言葉があるが、これらは生まれてから死ぬまでの間に「生き方の選択」を求められるということを意味しているのだろう。それは進学、就職、結婚、出産、親しい人の死だったりする。人によっては何かに感動することや、誰かに感化されて奮い立つことなのかもしれない。そんな時、自分を幸福(=目指すべき人生の成功、希望、夢と定義したい)へと導く選択肢を決める判断基準は、一体何なのか?その時点の最適解だけが良いとは限らないだろう。「苦労は買ってでもしろ」とか「急がば回れ」なんて諺もあるけど、敢えて困難な選択をすることも必要なのかもしれない。だが、その選択が自分の人生にとって有意義なのか、客観的に判定できるだろうか?

 ここまで説明してきて何が言いたいのかというと、「生きるということの論理性は何であるか?」である。生きていく上で求められる瞬間瞬間の判断に、どうやって論理性(あるいは妥当性)を持ち込むかだ。いや、人によってはそんなもの必要ない、難しく考えすぎだ、無駄じゃないの?と思うかもしれない。でも、そう言っている人ですら、無意識のうちに自分に適合した解を求めて、生きているはずだ。(その善悪と運・不運は別にして…)先の先まで見越した「今すべき」判断には、自我と思考の論理性、言い換えると将来に渡って後悔することのない『基準』を持つ必要があるように思う。そう豪語している自分はどうなんだと問われると、何とも答えられないのだが…(情けないなぁ→俺)。一筋縄ではそんな能力を身に付けることなどできないのだろう。だから、人生経験も必要だし、勉学に精進し、切磋琢磨することで養わなければならない。こんな風に考えている「この瞬間」にも、ブログで示す自分の思考の公共性・論理性・妥当性等が問われているわけだが、仮に10年経ってこの文章を読んだとして、同じ考え方で納得できるかどうかは怪しいところだ。
 結局は、人生を終える瞬間に自分の思考の論理性が判断できる(=満足できる人生だったかどうかが分かる)ということになるのだろうか。じゃあ、今持ち合わせている一時的な論理性に、正当な意味はないのかな?

 話が少しずれてしまうかもしれないが、幸福を求めるためには、未来を予測する能力が重要だと思う。「人生の岐路」でなくても、今の一分一秒、この瞬間は取り戻すことができないのだから、未来を予測してそれに向かって行動することが大切になってくるのだろう。仏教ではそのような考え方を「カルマ(業)」と言うのだそうだ。いわば「因縁果報 (因果応報とも言う)」という教えだ。物事の成り立ちは、原因と条件から結果が生じる。その結果がまた別の原因と条件になる。すべてがこの繰り返しで、世界は常に変化していく(=「諸行無常」)ということだ。時間的・空間的な差異はあれど、無限のカルマが人間だけでなくすべての物事に関係しているというのだろう。まるで混沌として理解の範囲を超えていそうなカルマ論なのだが、法則が発見されているカルマもあるそうだ。たとえば物理学などがいい例で、リンゴが木から落ちる現象は、万有引力の法則で説明できる。だから、リンゴを落とせば、何時どのくらいの速さと力で地面に落ちるかを「予測」できる。人間社会においても同様に、簡単な未来予測なら可能なのではなかろうか。他人の陰口を言えば回りまわって自分の陰口を言われるし、法を犯せばいずれその報いを受けることになる。逆に、いつも明るく挨拶したり、誰かを気遣ったりできれば、その恩は必ず返って来るだろう。つまりは、「善因善果」、「悪因悪果」という教えで説かれているように、未来につながるカルマには自ら働きかけるべきで、その中で未来を予測する能力を高めよ、ということになろうか…。それは「この瞬間」を大切にそして正しく「生きる」ということを意味している、と解釈したい。

 結局、生きることの論理性を追求するつもりが、問題提起で終わってしまった。別に仏教徒の回し者じゃないけど、なんだか仏法丸写しみたいな部分もあるし。もう少し纏まった考え方をしていたのだが、時分割でこのブログを書いてしまったので、纏まらなくてすみません。

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コメント

“生きる事の論理性”ですか。
前回も思考できないというお話をしましたが、多くの人は生きる事に論理性などは考えていないのだろうと思います。ただ、「楽しければそれで良い。」、「自分が楽しいのだからそれで良いのではないか。」生きる事の論理性には間違いなく法や秩序、善と悪、常識とモラルといったものが広範に及ぶものだと考えます。これが無くては人間社会が成り立たず、また生きる事に論理性を見出すことも出来ないのではないでしょうか。私が思うに、多くの人はただ生きているだけに過ぎないと思います。ただ快楽を求めているだけに過ぎない。「人生、苦労は買ってでもしろ」、「若いうちの苦労は将来実になる。」といったような話を聞きましたが今となっては死語に近いのではないでしょうか。この現代社会において、秩序や常識、モラルいうものが果たして存在するのか微妙な感じがします。私の尊敬する上杉謙信がかつてこう言っていました。「美しき流れ」、最近どこかで聞いた気がしますが、意味としては室町幕府を尊重し流れに例えたもので今で言うところの「法や秩序に…」に当たると考えます。自己快楽の追求のみがまかり通るこの社会において、流れを乱しているのはやはり人間なんですよね。自分の行いに論理性どころか責任すら持てない人間が増えてしまい、そのような人間たちに生きる事に論理性を見出せと言っても無理なのかなと考えます。
人間は高等動物であると昔から言いますが、その根拠は何だと考えますか。
相変わらず何が言いたいのか解らないかも知れませんがお許し下さい。

投稿: あまみのくろうさぎ。 | 2007/06/08 14:50

 僕の拙い考え方に真剣に付き合っていただいて、誠にありがとうございます。仰るとおり世の中は「自分さえよければそれで良い」という考え方がまかり通っていますよね。これは何も日本だけの風潮ではなく、欧米でもそうだし、途上国に至っても先進国の煽りを受けて、モラルの低下が見られますよね。(そこで扇動者になっているのは、他国民なのかもしれませんが。)もしかすると物質文明・消費文化の現代では、自ずとその傾向に向かうのでは?という感じもします。富むことで物を手に入れやすくなり、それが自由で豊かな生活・社会につながると信じているが、事実は勝手気ままな生き方になっている…。個人だけでなく、その個人が形成する社会・世界も、相似形を成しているのかもしれません。そこでは、あまみのくろうさぎさんの御意見の通り、「秩序や常識・モラルが存在するのか?」という疑問を抱かずにはいられません。

 自分も「生き方の論理性」なんて小難しい言葉を使ってますが、自己快楽の追求をしている一人なのかもしれません。そういうことに自ら疑問を持っているからこそ、ブログでその考えを主張してみたのです。(訳が分からない文章になっちゃいましたが…。)

 「人間は高等動物である。」ことの根拠ですか。う~ん、大脳新皮質が最も大きい生物っていうだけかもしれませんね。というのは冗談で、「高度な社会性を持ち、文明を創造する能力があるから。」と考えたいですね。ただし、良い意味と悪い意味が混在しているということを考慮して、ですが。

投稿: Daisukeh | 2007/06/08 15:44

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