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情報の論理性、雑感

 まずはじめに、自分は論理学に造詣が深い訳でもなく、議論やディベートを好むという程でもない、ということを断っておかなければならない。

 このところ抑うつ症状も大分改善してきており、インターネットを中心にテレビや新聞など、いろいろなメディアに触れている。そして、病気になる以前と同じ様に、それらの情報について考察することが多くなった。しかしながら、それらの情報が(特にテレビ番組は)脚色され、時には酷くデフォルメされたものだったりするので、非常に腹が立つことがある。(これも鬱症状なのか、独り過激な報道や馬鹿馬鹿しいニュースを見たりしてはイライラしてしまう。)
 たとえば、今話題の「ハニカミ王子」とはなんぞや?そもそも「ハンカチ王子」って…。汗をかいたらハンカチで拭くのは当然でしょう?若い高校生がゴルフで注目されて(もちろん実力あってのことだが)『はにかんで』いる、とても健全で素晴らしい事ではないか。にもかかわらず、「ハニカミ王子」と呼び捨ててしまうマスメディアの無粋さときたら、呆れてものも言えないのである。二人の若者はスポーツに勉学に頑張っているのであろうが、取り巻きの報道陣がコバンザメの如く張り付いて、その一挙手一投足を逃すまいと手薬煉を引いている。彼らは阿呆なのだろうか?自分がもしも取材される側だとしたら、とんでもない迷惑なのだと考えないのだろうか?さらに、行き過ぎた報道自体がニュースになると、「報道のあり方を問い直さないといけない…。」云々と反省するのである。この言葉を何度聞いたことだろう。

 注目の人だけではない。昨今の犯罪報道についてもそうだ。立て篭もり事件が発生すると、各報道機関がヘリを飛ばしたり、望遠で撮ったりと、完全生中継してしまう。犯人がテレビを見ているかもしれない、ということを想定していないのだろうか?SATやらSITやらが負傷者の救出をしようにも、ヘリで中継されたら狙い撃ちではないか。警察側は報道管制を敷かないのだろうか?それともこれが報道の自由なのか?
 また、犯人の親族や被害者の遺族にも何の配慮もなくインタビューしてしまうのだ。犯人側なら何を言っていいか分からないだろうし、被害者側だったら悲しいし悔しいし犯人が憎いに決まっている。それをわざわざ本人から聞き出す必要があるのだろうか?もちろん、当事者がマスメディアを通して伝えたいことがある場合もあるだろう。たとえば交通事故の量刑の問題や、拉致問題などだ。でもそういった行動は事後ある程度の時間が経過してからでも良いわけで、昨日殺されて今日被害者の親族がコメントを出すというのは、想像を絶するストレスであろう。
 映像の使い方もそうだ。殺人事件の現場検証などで血痕をそのまま放送してしまっている。それが血溜であっても、無理矢理フラッシュを焚いて暗い部屋の中を覗き見て、さもスクープの如く放送される。これが夕方のニュース番組で繰り返し伝えられるのだ。家族でニュースを見ながら食事したり団欒したりしている人が多いと思うが、そういったことは考慮しないのか?ヌード写真が有耶無耶のうちにヘア解禁になっているように、報道映像も「犯行現場の中継」から「犯罪の生中継」にシフトしていくのかと思うと恐ろしい。もっと恐ろしいのは、そういったニュースの合間にグルメ特集やレジャー特集が挿入されていることだ。ニュース番組とは一体何なのだろうか?

 と書いたところで、論理学について話を繋ぎたい。なぜなら、前述した情報の提供者の意図した形で、被提供者(視聴者)に伝わっているからである。事実が一次情報(=ソース)であるならば、メディアは二次情報(=ニュース)に加工しているわけで、その情報を得た我々は自らの視点で三次情報(=オピニオン)として知ることになる。時にはメディア側にコメンテーターなる人物がいて、その人のコメント自体が情報になることもある。「みのもんた」なんかがいい例だと思う。「XXXは体にいい。」とか言うと、次の日にはその商品が無くなっていたりする。ある意味で、コマーシャリズムとはそういうものなのだろうが、思考能力が衰退している現代人の大半には、メディアの二次情報は視聴者に直接届いてしまうのである。
 そこに、論理性はない。よく考えてみれば当然だったり簡単なことを特別なことの様に伝えたり、その逆に嘘を真実として伝えているのだ。すべての情報やマスメディアがそうだとは言わないが、ほとんどのニュースに当てはまることであろう。また、そういう風に脚色された情報は、視聴者にとって受け入れやすくなる。何故なら考えなくていいからである。映像や効果音、作りこまれた脚本やテロップ、そういったデフォルメで事実は事実ではなくなっているのだ。

 ニュースに限らず情報には論理性がなければならないと思う。議論に使用する情報であってもそうだ。その情報の確度は高いのか?一般性や汎用性があるのか?といったことを考慮しなければならないし、情報を用いる場面(ニュースのトピックにしても、議論にしても同様)でも、論理性が求められると思う。情報とその情報の利用の両方で論理性がほしいのだ。言い換えるならば「つじつま」である。論理性が成り立たない議論では、前提と帰結で論点がずれていることがある。そういったことが、自分にとって不快に感じてならない。冷静に情報を見つめ、確度の低い情報であるならば、それを前提に議論を進める、情報がないのであれば、多角的に情報を判断して論理性を確立していく、結論が出せないのであれば出さなくて良い、そういう風に議論を進めたいのである。
 メディア論やコマーシャリズムについては、全くの素人だから良く分からないが、マスメディアには感情面での表現も含めて、論理性が欠如してしまっている。メディアだけではない。今の若者文化にしてもそうだし、サブカルチャーに至ってもそうであろう。論理性だけで人間は生きていけないのは承知しているつもりだが、自由と勝手を履き違えている現代は、自分にとってどうにも窮屈だし醜い感じがするである。

 なんだか頭の中の考えを書き散らかしてしまって、まとめも何もないのだが、こういった話には反論が憑き物なので、屈託のないコメントを頂きたい。ただし、お手柔らかに…。

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